『FOUJITA』に見る、小栗康平の室内空間と祝祭広場
(画像は『FOUJITA』予告編より)
小栗康平監督の新作『FOUJITA』を観た。
小栗康平監督の作品は、なんだかんだで『伽倻子のために』以外はすべて観賞している。
とはいっても小栗作品じたいがこれまでにたったの6作しかない。
Wikiをみても
泥の河 (1981年)
伽倻子のために (1984年)
死の棘 (1990年)
眠る男 (1996年)
埋もれ木 (2005年)
FOUJITA (2015年)
これだけ。
世界的評価は高い。
評価されてるにも拘わらず、これほど寡作な作家もまた稀有だと思う。
かつて『泥の河』を初めて観た時、その熟練された語り口に圧倒された。
最初に目にしたのはBSだかでのTV放送だったけれど、後に改めて劇場で再観賞している。
たぶん昔の文芸坐(邦画だから文芸地下か?)だったと思う。
小栗監督は当時35才。
今でこそ三十路になる前に劇場作品を制作するのはそれほど困難でもなくなったが、1980年頃といえば日本映画はまだまだドン底の時期、撮影所システムも崩壊し、角川映画だけがカラ元気だったような時代。ましてや『泥の河』は独立系で製作をしていたはずで、そんな製作体制で海外の映画祭へ持って行って激賞されたのは快挙だったと思う。
じっさいタダの映画ファンだった自分も、この『泥の河』のモスクワ映画祭銀賞やアカデミー外国語映画部門ノミネートなんかのニュースは、日本映画の快進撃と感じていた。
今回、久々に小栗康平の世界に触れて(前作『埋もれ木』以来だから10年振りだ)、改めて気付いたことがあったのでそれを記述してみたい。
とはいっても、まだまだ頭の中では整理しきれていない部分も多いので、断片的な、まとまりのない文章になってしまうだろう。
それでも、それを試みておくことで、自分の中で「小栗康平」というものを少し位置づけておこうと思う。
冒頭、一枚の絵かと見紛う室内の風景が映し出される。
レンブラントの描くような、暗い中にポツリとスポットが照らされ観る者をそこへと注意を向けるような照明設計。
このカットが画面に出たとき、映像ではなく本当に描かれた”絵”だと思ってしまったくらいの計算された構図だった。
以後、映画はひたすら室内空間を映し続ける。
おそらく全編の9割近くが室内なのではないだろうか。実際に時計を片手に測ってみなければ正確なところは判断できないが、印象としてそのように感じた。
更にこの室内空間は、場所が変わってもほぼみな暗い空間で、明かりは小さなスタンドが床に置かれているだけだったり、窓から差し込む外からの光(おそらく陽光の直接光ではない)だ。
これは別に「当時のパリの時代の生活事情に沿った表現」ということではなく、監督・小栗康平の作風そのものの個性というほうが近い。
たとえば『死の棘』にしても、このような暗い室内に人物を配置することで、岸部一徳と松坂慶子の夫婦間に在る精神の齟齬を際立たせている。
『死の棘』の映像も採り上げてみれば、あえて内壁を黒や暗色に塗り、人物を際立たせるような細工をしているのが判る。
これが、筆者が今回『FOUJITA』を観たときの”ひっかかり”だったのか、とこの記事を書いていてようやく理解した。
内側に呼応するものは”外”。則ち外部空間だ。
映画である限り、シーンの変わり目などには時間の飛躍や場所の移動を説明すべき実景が挿入される。
ここでも小栗は愚直なまでに独自的な演出を施す。
場面転換を説明するための外観実景は挿入されて然るべきだが、それは、あくまでも説明以上の存在とはならない。
登場人物が「歩く」「交通手段を使って移動する」という以上の重要性は、小栗演出ではカメラは外ロケには出ない、と言ってもいいほどだろう。
(ちゃんと論考してない印象なので、断言は避けます)
それは例えば(これも小栗監督にとっては顕著ではないかと思うが)移動手段、殊に列車中のシークエンスが各々の小栗作品の中に登場しても、乗車している列車の”外観”は捕らえられることがなく、ただ”車内空間”のみで成立している、ということから拘りを感じてしまうのだが。
しかも、この列車内はセットで造られている、云わばここもまた「室内空間」である。
小栗作品で”何か”を語るとき、そこは「室内」でなければならないのだろう。
思い返せば、『泥の河』においても”移動手段としてのメディア”であるはずの船は係留され生活する場となり、更にはこの「室内」で重要なドラマが進行するという構造だった。
では、小栗監督にとって、「外部」とは何であるのか。
小栗演出において、「室内」に対する「外」は、祝祭のためのものとして機能する。
『FOUJITA』においては、2度の”祝祭”が登場する。
前半のカフェでの乱痴気騒ぎと、美術館での仮面舞踏会フジタ・ナイト。
後者はまさに広場での祝祭そのものだし、前者は屋内ではあるものの、カフェという非日常空間で行われる。云わば「ハレ」の場だ。
また、序盤カフェテリアで日本の画家仲間と談笑するシークエンスがあるが、そこではフジタが自分の絵描きとしてのスキルを活かして淑女を「ナンパ」する、という流れになっている。
ここもやはり非日常=「ハレ」の場と云えるだろう。
息苦しいほど暗い日常=「ケ」としての室内と、開放された非日常の祝祭空間=「ハレ」の広場。
「ハレ」と「ケ」を画によって明確に分け対比し、観客に示そうとしているのではないだろうか。
鑑みれば、重々しい室内においても、外部から差し込む陽光は常にまばゆく差し込んできている。
(それが尚更室内の暗さを際立たせるのだが。)
「ハレ」と「ケ」、非日常と日常は常に背中合わせに在りながら、それが混じり合うことはない。
その外部=祝祭空間という意味合いが最も明快に現れた作品が『埋もれ木』だろう。
この『埋もれ木』に至っては、他の小栗作品と趣きを異にし、まるで寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」のアジテーションの如く、外へ、祝祭空間へと踊りだし精神が開放されていく。
実を云えば、個人的には『埋もれ木』が最も好みであった、ように思う。
であったと思うのだが、何せ10年前の公開時に1度観賞したきり。なので、ほぼ記憶がないという哀しい状況。
ただ、観ながら「ああ、これ俺の中では小栗監督作でいちばん好きかも」と思っていた。
小栗監督の他の作品、例えば『泥の河』にせよ『死の棘』にせよ『眠る男』にせよ、それなりに確固と”記憶に残っている”んだけど。
で、少しでも埋もれた記憶を掘り起こればと思い予告編を探したんだけれど、公式のはない様子。
見つけはしたが、たぶんオフィシャルじゃないんだろうなこれは。
閑話休題。話を戻そう。
埋もれ木 [DVD] における
Amazonの商品説明にはこんなことが書かれている。
“そこで生活する人々のささやかな息吹のみが静謐(せいひつ)に綴られていく”
(うーん、それなら「憶えてない」っていうのも言い訳ができるかな。予告にも出てるようにラストで祝祭を迎えるのは記憶にあるんだけど)
上のAmazon商品説明で語られているように、小栗康平の映像を表すには「静謐」という言葉がいちばんしっくりとくる。
更には『埋もれ木』や『眠る男』でも立ち現われた、幻想的・寓話的な画に到達していくのもまた小栗の映像の特徴だろう。
これまで述べてきた”小栗康平の祝祭空間”においても、騒然さよりもどこかこの静謐が漂っていると思う。
事実、上述『FOUJITA』のフジタ・ナイトのくだりにおいては、映像で乱痴気騒ぎの模様は描かれても、音声の喧騒は削除され、環境音楽のような静かな旋律が響き渡る。
室内=内面の心象の反映、外部=祝祭空間、という区別。
最新作『FOUJITA』では更に研ぎ澄まされ一切の無駄を排除したミニマムな姿が屹立しているように感じる。
この「室内空間」の息苦しさが、たぶん、最も顕著に現れた例が『死の棘』ではないだろうか。
夫の浮気を許さない妻と二人きりの室内は、息が詰まるほどに空気が凝固し、逃れることのできない蟻地獄のような空間に変貌していた。
『死の棘』予告
ここまでで、筆者なりの独自解釈をするならば、
小栗康平を形作るキィワードは、この4種に集約されるのではないだろうか。
・室内
・屋外(祝祭としての広場)
・乗物
・幻想
こうした比較の中『FOUJITA』を考えてみると、パリ時代にフジタが知名度を上げるためにショーケースの中に自分の似姿のマネキンを飾った、というエピソードもまた違った捉え方がみえてくるような気がする。
マネキンの飾られたショーケースは「室内」ではあるが「外部」へと開かれている。
云わばそれは、フジタの内的世界を外へ向けて装飾し見せるための演出装置として機能していたのではないだろうか。
内と外を繋ぐ狭間。そこに在るショーケースは、通路であり、互いの空間を見透す窓。
「ショーケースの中のフジタのマネキン」こそが、藤田嗣治という人間のすべてを現した写し身なのだ。
小栗の作品を観ると感じるのだが、「言語化できない」イメージが映像となって映しだされているように思う。
ダイアログでの説明など殆ど無く、こうして記事にしようと思っても、なかなか言葉で説明がし辛いのだ。
半ば「好きに解釈してくれ」と観る側に放り投げられているような印象さえ感じる。
それは、小栗康平の画面設計が極めて”絵画的”で、スクリーンの枠の中で完結しているように感じるからかもしれない。
外でのロケーションでは、どうしても「画面の外側の世界」を見る側は嫌でも意識せざるを得ないけれど、多くの場合小栗作品は室内はセット撮影となるので、「外側」からは隔離されたものとなる。
小栗作品を観るとき、額縁の中の絵画を眺めているように感じるのは、構図から感じる印象だけではないのかもしれない。
ということで、小栗康平に関してもう少し掘り下げたいと思いWikiを探索してみることにした。
不勉強のため、小栗監督が『流星人間ゾーン』に携わっていたということを、今回Wikiで初めて知りました。
小栗康平の初演出作もこのTVシリーズの1挿話ということになるらしい。
21話『無敵! ゴジラ大暴れ』という回がそれ。
ゴジラを背景に『監督 小栗康平』のテロップ。今からみればなんだか珍妙である。
この作品の中で小栗康平は2話分の監督を任されている。
中でもうちの1話は最終回。
シリーズには本多猪四郎や湯浅などそうそうたる監督が名を連ねる中での最終回なんて、大抜擢!!
…と思いきや、実際のところこの『流星人間ゾーン』そのものが不人気で実質上打ち切りになってるような雰囲気で終了してるので、その実は作品としては見棄てられ新人監督にやらせた、ということだったのかもしれない。
言ってみれば「敗戦処理投手」。
それでも、小栗監督の演出はこのシリーズの中でも異彩を放っていて、他の監督作とは明らかに画面の質が違っているのが見てとれる、と思う。
ライティングを抑制し明暗を強調した室内。
子供番組に似つかわしくない、やたらと絵画的な構図。
ここでは説明し切れなかったが、妙に思わせぶりなイメージシーンなんかもあって、子供番組にしては異質な匂いがして面食らってしまった。
(※直リンは避けるけど興味ある方は「流星人間ゾーン 無料」とでもググってみてください)
小栗康平の描く世界は、極めて寓話的で観念的ではないか、と個人的には思う。
それが、今回の『FOUJITA』では、実在の人物の伝記を描いた。
前作『埋もれ木』がほぼファンタジーな内容だったことを思うと、これはコペルニクス的転回にも似ている。
それでもやっぱり、小栗作品は常に同じ匂いを纏ってスクリーンを覆い尽くす。
正直云って、小栗作品を観ていても、ここまで書いてきたように果たして僕には理解できているのかどうか判らない。
自分にとって、果たして小栗康平という監督が、好きなのか嫌いなのかどうかさえ判らない。
にも拘わらず、新作が作られ公開されれば、やはり「観ねばならない」という義務感のようなものに囚われる。
それは、ゴダールやツァイ・ミンリャンのような映画作家に対して抱くのと同じ感情だ。
小栗康平は、日本映画において、否、世界の映画界にとって、ワン・アンド・オンリーな存在だと思う。
だからどうしても気になるし、観逃せないのだ。